第32号【特集】部落問題研究と戦争責任:新しい関係の創造のために
本特集は、全国水平社の戦争責任問題を蔑ろにした部落問題研究への批判と自己批判の場として設けられる。とくに朝鮮人研究者からの、研究も含めた部落解放運動総体への批判は、民族浄化、ジェノサイドが日常化する今日、ますます重要になっている。それは、部落解放運動の常套句ともいえる「平和の基礎は人権」という思想を問う。
たしかに、この思想は、従前の「民主主義の成果や労苦を過小評価」しないという意味で正鵠を射ている。しかしそれは、「民主主義と全体主義とが内奥において連帯しているというテーゼ」の領解を前提とした場合に有効なのである。部落解放という民主主義が、全体主義の齎した禍根の再来を排除しえないことは、日本帝国主義の戦争に、部落解放の思想と論理をもって加担した事実がそれを論証する。
しかも、戦争を遂行する主権と被差別部落民は、抑圧―被抑圧、差別―被差別、排除―包含という二項対立的関係に収まらない。被差別部落民は、内部に差別―被差別を抱え、かつ絶対的な主権を主体化することで朝鮮人にたいして抑圧者であった。この自己疎外の極みを直視するものはほぼ皆無であった。ある研究者は、部落解放運動の戦争責任批判に、「侵略戦争をあるがままに受容した」のだと述べた。これは論外としても、内奥で全体主義と連帯する「平和の基礎は人権」という思想は、ナショナリズムの残酷を乗り越え未来を築くなにかではない。国家と国境を超えるべき連帯は、ますます遠のき、そこは絶望が広がる。絶望は「死に至る病」である。
部落問題研究者は、だからこそ朝鮮人からの批判を蔑ろにしてきた研究者の責任をも「あるがままに」引受ける必要がある。そして、その回答を具体的な部落解放研究として示すのである。我々がその道すがらに息絶えたとしても、別のコンテクストにおいて反復され、国家と国境を超えることができるなにかを示すことである。
自己批判は自己のみで容易なほど軽々しいものではない。「鉄は鉄によって、人はその友によって研がれる」のである。
本特集は、その細やかな始まりとして位置づける。
部落解放研究編集委員会