当研究所は、読者からのエッセイを募集しています。原稿は、MSWordのフォーマットで3,000文字以内です。著作権は、当研究所に帰属します。また、投稿内容に本研修所の理念と著しい乖離がある場合は、掲載をお断りする場合があります。
部落解放運動において、「誇り」はキータームである。それは、全国水平社の「物語」であり、以来、繰り返しテーマとされてきた。谷元昭信「第四期部落解放運動への挑戦と課題」(月刊『部落解放』2025年12月号)は、このタームを「誇りの戦略」に高め、部落解放運動における譲ることのできない原理であるとする。谷元の議論は、吉田加奈子「『見えない存在』として生きる部落ルーツの人たち」(同誌2023年12月号)に対する応答でもある。本小論は、両者の理論的含意を検討し、同時に、筆者が両者に抱く「違和感」をより一般化する試みでもある。
「誇りの物語」は、被差別部落民を解放運動に組織化する装置としての機能を果たしたのは事実である。それは、人間的価値を毀損され続けてきた主体が、歴史の再解釈を通じて自己肯定の契機となった。「我々は誇りある歴史を持つ」という宣言は、単なる歴史認識を超えて、主体を構成するperformativeな作用をもった。この点において、それは積極的な社会的アイデンティティの形成を促し、被差別部落への帰属の自認と差別糾弾という実践の正当性を同時に成立させた。
しかし、この「誇り」は、何ものからも自立的に存在するのではない。誇りとは本質的に差異の体系の内部でのみ成立している。端的に言うと「誇りある我々」は、つねに「誇りを持たない(持てない)何者か」との関係においてのみ可視化される。すなわち、誇りが他者との差異化を通じて成立する以上、「われわれ」には、必然的に排除の契機が内包される。ここにおいて、誇りは解放の資源であったと同時に、境界を生成する直接的な装置としても機能する。
この境界は固定的ではない。むしろ、被差別部落をめぐる現実は、つねにその境界を反復横断する運動によって特徴づけられる。本稿は、この運動を「往還(的移動)」と呼ぶ。それは、単なる人口移動ではなく、当事者も非当事者も、被差別部落と非被差別部落のあいだを行き来し、その過程で帰属や同一性が再編成される動態である。居住、婚姻、労働、教育といった契機を通じて、人びとは異なる社会的位置を行き来し、その都度、「部落民/非部落民」という区分の意味は遅延し、ずらされる。この往還の運動は、共同体を自己同一的な実体として把握することを不可能にし、むしろ被差別部落を、境界のなかで絶えず生成されるスペクトラム的な、いわば過程的存在として浮かび上がらせる。
このような状況においては、「例外の常態化」という現象が起きる。たとえば、本来は例外的と見なされてきた出自と自己認識の不一致をもって「部落出身ではない」と語る被差別部落出身者や、逆に「部落出身である」との自己認識を示す非被差別部落出身者、あるいは外国にルーツをもち被差別部落民として生きる人などが多く現れ、彼らの置かれる状況が全体として「常態化」するのである。例外は規範によって定義されるが、その例外が反復されるとき、規範そのものが自らを否定する疎外状況に陥る。この意味で、例外は単なる逸脱ではなく、規範の成立条件を内部から解体する契機である。
この「例外の常態化」は、主権と例外の関係をめぐる議論とも接続しうる。すなわち、例外は規範の外部にあるのではなく、むしろ規範の内部においてその秩序の内に包含されるものである。被差別部落も、例外を排除することによって成立しているのではなく、例外を内部に包摂しつつ国家秩序の内において維持されている。したがって、「部落ルーツ」や「当事者性」といった概念は、安定した同一性を指示するものではなく、指標としてはつねに揺らぐにすぎない。とくに近年、「部落ルーツ」は、存在論的不確定さを強く観察できるようになっている。
吉田は、被差別部落民が(外部に出て)「見えない存在」として生きることを、差別からの自己防衛として肯定的に評価する。しかし、この評価は、なお慎重に議論される必要がある。なぜなら、「見える/見えない」という区分自体が、すでに一定の可視性の政治に依拠しているからである。誰が見え、誰が見えないのか、また、誰に見え、誰に見えないのか、その配分を決定する枠組みそれ自体が議論されていない。また、被差別部落民が主体的に選択したかに見える「見えない存在」としての位置は、おおむね、そのような場に置かれたのであり、被差別部落民が拡大再生産される一現象にすぎない。
吉田は、「見えない存在」として生きる選択をした被差別部落民に、積極的に語らせようとする。だが、語らせることそれ自体の暴力性を、とくに研究者は考慮すべきである。インタビューという方法は、非対称的な関係の中で語らせるのであり、その内容は透明中立な表象ではありえない。そして、語りは、研究者によって解釈され転記(transcription)される。語りは再構成されるのである。さらに、インタビューに「部落民」を招聘することにも疑問をもつ必要がある。それは名を呼ぶ行為なのである。ジャック・デリダを引用するまでもなく、名を呼ぶことは、解釈によって対象に一定の意味を付与し固定化することになる。そして、「部落」という語の使用も、名を呼ぶことで対象を規定する暴力となる。とくに「部落」の語を忌避する被差別部落出身者にとって、その語は耐え難い苦痛となる。
耐え難い苦痛は、被差別部落民の沈黙となって現れる。この「沈黙」をどのように理解するのか。沈黙は単なる発話の欠如ではない。被差別部落において観察される沈黙は、差別の不可視性と結びついている。すなわち、差別は顕在的な形で存在するだけでなく、「差別として確定できない」かたちで持続するのである。「差別として確定できない」ゆえに、語ることができない。あるいは部落という語が記号として立ち現れるときも、彼らには沈黙が強制される。このとき、問題は差別の有無を証明することではなく、むしろそれが証明不可能となる構造を明らかにすることにある。
以上を踏まえるならば、「誇りの戦略」に対しては、別の倫理的原理が要請される。それは、自己の同一性を強化するのではなく、むしろそれを根底から揺るがす契機において成立する倫理である。「誇り」は、歴史や集団への帰属を通じて自己の正当性を確保しようとする運動の契機であり、主体を自己同一的なものとして充足させる。しかし、このような自己充足は、他者に対する応答の契機を閉ざす危険を孕む。というのも、「誇り」が自己の正当性を感じさせると、他者からの倫理的問いかけが「誇り」を毀損するものとして理解されるのである。自己肯定性を補強するものとしてしか受け取られなくなり、自己否定の契機を逸してしまう。ここでいう「自己否定」とは、自己を価値の欠如として貶めることではない。それはむしろ、自己の同一性が他者によって不断に攪乱されうるものであることを引き受ける態度であり、ポジショナリティに属する議論となる。この意味での自己否定は、主体が自己完結することを拒否し、つねに他者に開かれた状態にとどまろうとする運動である。
谷元と吉田の議論には、もう一つの問題がある。それがポジショナリティの非対称性である。谷元および吉田の議論においては、それぞれの立場から導かれた判断に対する一定の確信が見出される。すなわち、「誇り」を擁護する立場においても、「見えない存在」としての選択を肯定する立場においても、自らの位置の正当性は基本的に疑われていない。
筆者の立場はこれとは異なる。筆者は、自己の判断の倫理的正当性に確証をもたない。それは、主観的な逡巡ではなく、他者への責任が、いかなる自己正当化よりも先行するという議論に由来する。当事者であることが、この問題における正当性の担保の根拠になるわけではない。当事者である自己の判断が、他者に与える影響に対して、責任を引き受けざるをえないこともある。この責任は、自己の正しさへの確信によってではなく、その確信の不可能性を引き受けることで成立する。この意味で倫理的であることは、「正しい立場」を提示するものではない。いかなる立場も最終的には正当化されえないという条件のもとで、それでもなお応答し続けることを筆者に要請する倫理である。
往還と例外の常態化によって同一性の不安定さが露呈している現在においては、このような非同一性に開かれた倫理こそが、差別の再生産に抗するための条件となる。
俺のアイデンティティだって?
若いのが聞いてきやがった。
そんなもんは、縁側に置いといたら犬が咥えていきやがった。
最近、私ははじめて過越祭の夜の食卓に加わった。
祈りの仲間であるレベッカが導き、苦みを含んだ草や塩水、語り継がれてきた物語の朗読、手を清める所作、そして歌――すべてがひとつの流れとなってそこにあった。命を思わせる水と、大地の記憶を宿した塩。
数えきれないほどの世代を渡ってきたこの儀式に身を置きながら、それがいまという時代の中で息をしていることに、私は深く心を動かされた。どこか自分の輪郭がほどけていくようで、かすかな眩暈を覚えながら、それでも内側の奥深くで、遠い響きが反響していた。
子どもたちの問いかけ。皿の上に落とされる、血を思わせる赤いしずく。
「ダイエヌ」と繰り返される声――それだけで、もう十分だった。
この夜のすべては、記憶のためにある。
かつて奴隷であった苦しみと、そこから解き放たれた物語を、次の世代へと手渡していくために。
そこでは「私たち」という感覚が、否応なく立ち上がってくる。
子どもが問う。
なぜ、苦い草を口にするのか。
それに応えるように、歌は重ねられていく。
もし、あの地から連れ出されただけだったとしても――それで十分だった。
もし、打ち倒されただけで、何も与えられなかったとしても――それで十分だった。
もし、与えられながら、道が開かれなかったとしても――それで十分だった。
もし、道が開かれながら、追う者たちが滅びなかったとしても――それで十分だった。
もし、彼らが滅びながら、なお辿り着かなかったとしても――それで十分だった。
語りは、「私たち」の苦しみをなぞり、「私たち」の解放を祝う。
そして、「私たち」に与えられた正しさを確かめる。
けれども、その「私たち」は、いま誰を指しているのだろうか。
この物語は、いつのまにか別の現実を支える言葉にもなりうる。
しかし、Jewish Voices for Peaceの人々は、同じ歌を、別の響きへとひらく。
かたちはそのままに、意味を反転させる。
かつての苦しみを語る言葉を、いま自分たちが与えている苦しみへと向け直す。
そのとき、「ダイエヌ」は祈りではなく、叫びになる。
――もう、たくさんだ。
それは、誰かひとつの民ではなく、より大きな「私たち」へと開かれていく。
あらゆる苦しみに触れ、あらゆる抑圧に抗うための声として。
古い祈りは、いまも路上で繰り返される。
「私たちの名においてではない」と。
彼らは取り戻そうとしている。
戦争の言葉でも、国家の言葉でもない、自分たち自身の言葉を。
そして線を引く。
これが私たちであり、あれはそうではない、と。
この線は、見えないが確かなものだ。
受け継いできたものと、押しつけられるものとを分かつ線。
それを失えば、人はどこへでも連れて行かれる。
鼻に輪を通された牛のように。
「この国の者なら従え」
「この名を名乗るなら疑うな」
そうした声は、どこにでもある。
どの国もまた、「私たち」という言葉を手綱のように使い、人を形づくろうとする。
兵士として、消費者として、あるいはただ従うだけの存在として。
だからこそ、その線は必要なのだ。
それは、人であり続けるための線でもある。
他者を、ただ倒すべき敵としてではなく、同じ重みをもった存在として見るために。
そして、そのまなざしは、また別の誰かへと渡っていく。
いつか、より多くの人が自分の線を引けるようになることを願う。
自分の物語を、自分の歌を、自分の記憶を、他の誰かの手に委ねないために。
文化とは、私たちを育てるものだ。
世界の中で、自分がどこに立っているのかを教えてくれるものだ。
では、何を育てるのか。
何を残し、何を手放すのか。
その問いは、どの時代にも、どの土地にもある。
どこから来たのか。
何をくぐり抜けてきたのか。
どこへ向かうのか。
どこへは行かないのか。
それを知ること。
それが、いま目の前にいる「ファラオ」に向き合うための、
一本の線になる。
これまで沖縄好きの日本人を無意識の植民地主義者として批判してきた琉球出身の社会学研究者・野村浩也による2025年の論文「『沖縄が好き』というポジショナリティ:岸政彦批判」(『広島修大論集』第66巻第1号)は、マックス・ウェーバーの研究者への「警告」に忠実なラディカルな論考である。それは筆者にとっても倫理的な問いであると理解できる。
野村浩也は、岸政彦が学部生の頃を振り返り、調査に同行した釜ヶ崎で労働者から発せられた「お前は誰や」という問いを、アイデンティティへの問いとしてしか認識できていないという思想的貧弱さを導入として、岸のポジショナリティの欠落に対する批判を始める。長い時間を経ても岸の応答は、「学部生」「社会学者」「活動家」「痩せた色白の学生」「お坊ちゃん」「若造」「社会学の道」「大学院」「日雇い」といったアイデンティティの表象にとどまっている。野村は、労働者の問いにアイデンティティとして応答するだけで十分であるならば、そもそもポジショナリティという概念自体は必要なかったはずであると述べる。
アイデンティティは、ポジショナリティのように権力関係を明確に指し示すことができない。差別―非差別、抑圧―非抑圧の関係は、差別者・抑圧者側に存在する問題であり、被害を受けるマイノリティに帰属するものではない。したがって、この問題への言及においては、マジョリティのポジショナリティを問い直すことが不可欠である。この観点から、岸の議論における錯覚が暴かれる。すなわち岸は、野村のようにポジショナリティを厳しく問う議論に対して、「息苦しいし、だいいちつまらない」と唐突に切り捨てているのである。これだけでも岸の学問的態度に対する十分に決定的な批判となるが、さらに致命的な誤謬が存在する。
岸は自著の中で、自身の学問の「キーワード」として「沖縄が好き」と言い続けている。これに対し野村は、日本人が「沖縄が好き」と語ること自体が、ポジショナリティの不自覚であると指摘する。ポジショナリティを自覚しないことによって、意識的であれ無意識的であれ、基地の存在という現実を無視し、「基地を押しつけていない」とする欺瞞が生じるのである。日本人に内在する「沖縄が好き」という感情は、基地負担の不在を前提とする思い込みのスキーマであり、岸がこの言葉を反復することは、行為遂行的に一般的日本人と同様、ポジショナリティの営為を放棄し続けることにほかならない。それは耐えがたい精神的負荷からの逃走である。しかし、琉球人にとっては、経済的・文化的・精神的苦痛からの逃走は不可能である。「沖縄が好き」ならば基地の一つでも引き取るべきだという野村の抑制された憤りは、合理的なものといえる。言うまでもなく、「沖縄問題」に関わることと「沖縄が好き」であることは無関係である。
ここで重要なのは、この問題が単なる岸政彦個人の態度の問題にとどまらないという点である。問われているのは、「いかに応答するのか」という応答の形式そのものであり、その限りにおいて、この問題は倫理の問題へと必然的に開かれる。すなわち、ポジショナリティとは単なる立場の表明ではなく、他者に対する応答のあり方そのものを規定する契機なのである。岸の「沖縄が好き」という言明は、内容の問題というよりも、応答の回避として機能している。
野村が問う、日本人の琉球および琉球人に対するポジショナリティとは、少なくとも近代以降、とりわけ戦争動員という「悲惨」の言葉では言い尽くせない経験、そして戦後の米軍占領のもとで安全と繁栄が保障されてきたにもかかわらず、そのことに無自覚なまま再び沖縄を観光対象としてきた歴史的責任を自覚することである。このとき日本人には、一つの選択肢が与えられている。それが責任を果たすという選択である。私は、この選択肢が一方的に与えられているからこそ倫理的であると考える。ポジショナリティの思想は、責任を果たすことによって、差別者・植民者・権力主体としての位置を変革するためにある。
月次であるが、野村は岸批判を通して、日本人のあり方を問うているということができる。被差別部落民もまた、その「一般的日本人」に含まれる。すなわち「我々部落民」も、琉球人に対するポジショナリティを闡明し、責任を果たすことが求められている。我々は、抑圧―非抑圧の関係において他者に応答責任を求めるが、同時にそれ以上に他者に対する応答責任を負っている。かつて、そして今なおキ厶・チョンミが我々の戦争責任と倫理的態度を問い続けているように、である。ここでは改めて、自ら問うポジショナリティと責任のあり方について述べる必要があるだろう。
責任とは、他者に常に応答し続けること(”être responsable sans fin”)である。その責任は固定的なものではなく、終わりなき応答(responsabilité)としてあり続ける。最も重要なのは、他者を決して完全には理解できないという認識である。それは、他者を「決定的に名指す」ことを避け、常に開かれた関係を保つという意味を持つ。責任は、応答における「決断の不可能性」と共存している。真に倫理的な決断とは、不確実性を引き受けながらも、それでもなお決断し続ける態度にある。それがポジショナリティの問いへの応答である。幸か不幸か、この態度の実践こそが、アポリアとしての倫理である。
責任を問うことにおいて、倫理はどのような意味を持つのか。倫理とは安定した規則に従うことではなく、解消されないジレンマや矛盾のただ中に身を置くことである。戦争責任において、その応答行為は他者を定義することを不可避とするため、そこには暴力が伴う。また、「誰に、どのように責任を問うのか」という問いにも一義的な答えは存在しない。しかし、それでも問い続けること自体が倫理的行為である。したがって、「責任を問うこと」が暴力を再生産しうるという逆説に対しては、脱構築的思考によって応答する必要がある。それは、名指しの不可能性を自覚しつつも、他者への応答を継続するという、不安定で未完の倫理の実践にほかならない。
しかし、責任への応答にはポジショナリティが不可避に関与する。だがその表明は、直ちにこの倫理と整合するとは限らない。そこには緊張関係が存在する。責任は固定された立場の表明ではなく、「応答し続けること」にあるにもかかわらず、「私はこの位置にいる者として語る」と述べるとき、その位置を安定的に名指してしまう。この名指しは不可避であると同時に暴力性を孕む。ゆえに、ポジショナリティの闡明は必要ではあるが、それを確定的な自己規定として固定することは、他者と自己の複雑性を切り詰めてしまう危険を伴う。
したがって、ポジショナリティとは闡明されるべきでありながら、同時にアポリアでもある。名指されるが、その名指しは常に暫定的で更新され続ける。ポジショナリティの闡明は責任を免責するのではなく、むしろ責任を増幅させる。
ここでエマニュエル・レヴィナスに接続すると、議論はさらに鋭さを増す。レヴィナスにとって倫理は、「他者の顔」による一方的な呼びかけから始まる。重要なのは、「私」は自らのポジショナリティを説明する以前に、すでに他者に対して責任を負っているという点である。その責任は非対称的で過剰なものであり、自己のアイデンティティはこの応答の過程で事後的に形成される。この観点からすれば、「ポジショナリティの闡明」は順序が逆転する。すなわち、「私はこの位置にいるから応答する」のではなく、「すでに応答しており、その中で自らの位置が問い直され続ける」という構図となる。
マイノリティへの差別や偏見は、「アイデンティティ」の問題によって生じるのではない。それは、差別される側が「誰であるか」ではなく、差別する側が「どの位置にいるか」という問題である。言い換えると、位置、すなわち関係・構造・実践の問題である。安定的にポジショナリティを語るとき、応答は他者を規定してしまうという点で暴力的になりうる。他方で、自らの位置を語らなければ、応答そのものが成立しないという別の重大な暴力に陥る。この両者は対立ではなくアポリアである。また、ポジショナリティそれ自体が倫理の基盤なのではない。「終わりなき応答」や「決断の不可能性」というアポリアは、ポジショナリティを固定的属性の開示ではなく、揺らぎ続ける責任の形式として再定義する方向へと開いていると野村浩也は闡明している。
ナポレオン法典(民法典)と日本の家父長制の関係は、19世紀後半の日本の近代法形成を理解するうえで重要なテーマである。結論から言えば、日本の家父長制とイエ制度は、フランスのナポレオン法典の影響を一部受けつつも、主として日本の伝統的家制度とドイツ法の影響によって強化・制度化されたものである。本稿では、この過程を歴史的展開と理論的視点の双方から整理する。
まず、ナポレオン法典とは何か。それはナポレオン・ボナパルトが1804年に制定した民法典であり、近代国家の基本モデルとして世界各国の法整備に大きな影響を与えた。その特徴は、家族を社会の基本単位とし、父親(家長)の強い権限を認め、妻や子を法的に従属的地位に置く点にある。すなわち、近代法でありながら、家庭内では父権的秩序を維持する構造を持っていた。
明治維新後の日本は、西洋型国家の制度を急速に整備する必要に迫られていた。この過程で民法制定が進められ、初期段階ではナポレオン法典を中心とするフランス法の影響が強く、フランス人法学者の指導も受けた。父親中心の家族観や家族内の上下関係を重視する考え方は、日本の政策担当者にとっても「近代的制度」として受容しやすいものであった。
しかし、日本の家制度は単なるフランス法の模倣ではない。日本にはもともと、イエを経済単位・社会単位として重視し、戸主が家族を統率し、イエの存続を最優先とする慣行が存在していた。明治政府はこれを法制度として再編し、1898年民法において、戸主による家族統制、家族成員の婚姻・離婚・相続・資産管理の統制、長男によるイエ継承といった仕組みを制度化した。
この制度形成において、日本の立法者はナポレオン法典に「近代国家においても父権は正当である」という理論的裏付けを見出した。一方で、フランスが個人中心社会であるのに対し、日本はイエ中心社会であるという点で重要な差異がある。そのため、日本の家制度はフランス法よりも、むしろ伝統的慣行やドイツ法の国家主義的思想の影響を強く受けて形成されたと考えられる。戸籍制度にもドイツ的影響が認められる。ここでの目的は、国家の安定、社会秩序の維持、忠誠心の育成にあり、家族内の上下関係と国家への服従関係とが重ね合わされた。
以上の歴史的経緯から明らかなように、近代化は単なる西洋化や個人主義の導入ではない。むしろ、伝統が再編成され制度として固定化される過程であった。江戸時代の家族形態は身分や地域によって多様であり、商人層では血縁に限定されない相続や女性の家督相続も見られた。しかし明治期には、イエが国家の基礎単位として位置づけられ、戸主権と長子相続が原則化されることで、多様だった慣行は「統一された伝統」として再構築された。
では、なぜこの再構築が必要だったのか。それは、近代国家が戸籍管理、徴兵、納税、教育といった統治機能を効率的に遂行するためである。個人よりも管理しやすい単位としてイエが制度的に固定され、西洋の父権的家族観がその正当化に用いられた。このように、イエ制度は「古来の伝統」ではなく、近代国家形成の過程で強化された制度であると理解される。
この現象は理論的にも説明可能である。エリック・ホブズボウム のいう「伝統の創出」は、近代国家が統治のために慣習を再編し、それを歴史的伝統として固定する過程を指す。明治期のイエ制度も、この典型例といえる。エリック・ホブズボウム のいう「伝統の創出」は、近代国家が統治の必要に応じて社会的慣習を選別・再編し、それをあたかも古来、連続する伝統であるかのように制度化する過程を指す。この観点に立てば、イエ制度は過去の単なる継承ではなく、多様で流動的だった慣行の中から特定の形式を抽出し、国家的に固定化した産物である。つまり「伝統である」という事実そのものが、すでに近代的操作の結果なのである。
以上のように、明治期のイエ制度は単なる西洋法の影響や日本の固有文化の延長として説明されるものではなく、近代国家が社会を統治し、人口を管理し、主体を形成し、財産秩序を安定させるために編成した複合的な装置として理解されるべきである。それは経済構造に支えられた制度であると同時に、イデオロギーを再生産する場であり、統治技術の一環であり、主権秩序の縮図でもあった。
この現象は理論的にも多角的に把握することができる。ここでは、異なる理論的視座をあえて併置することで、イエ制度の複層的性格を浮かび上がらせたい。
カール・マルクス と フリードリヒ・エンゲルス の観点から見ると、家族は単なる文化的単位ではなく、生産関係に規定された社会装置として理解される。とりわけ『家族・私有財産・国家の起源』においては、父権制家族は私有財産を安定的に継承するための制度として位置づけられている。明治期のイエ制度もまた、相続秩序を明確化し、財産の分散を防ぐことで、近代的所有関係の安定化に寄与していた。このときイエは、倫理や情緒以前に、経済構造に組み込まれた装置として機能している。
しかし、イエ制度は経済的機能に還元されるものではない。ルイ・アルチュセール のいう国家のイデオロギー装置という観点に立てば、家族は国家の価値観や服従関係を日常的に再生産する場である。イエの内部における戸主への服従は、単なる家内秩序ではなく、権威に従う主体を形成する訓練の場となる。ここでは家族は、国家に従属する主体を「自然に」生み出す装置として働いている。
さらに、ミシェル・フーコー の統治性の観点から見るならば、イエ制度は人口を把握し管理するための技術として理解される。近代国家は個人を直接統制するのではなく、戸籍や家族単位を媒介として間接的に人口を管理する。婚姻・出生・相続といった出来事がイエ単位で把握されることにより、国家は社会全体を効率的に可視化し、統治することが可能となる。このときイエは、統治のミクロなインフラとして機能している。
この構造をさらに押し広げると、ジョルジョ・アガンベン の主権論とも接続する。国家が法を通じて秩序を設定するのと同様に、戸主はイエの内部で強い決定権を持つ。ここでは、法のもとで平等とされる個人が、イエの内部では明確な序列に組み込まれるという二重構造が現れる。イエは、国家主権の縮小模型として作動しているのである。
最後に、ジャック・デリダ の視点を導入すると、イエ制度は「どの慣行を伝統と呼ぶか」という決定の問題として浮かび上がる。本来多様であった家族形態の中から特定の形式を選び取り、それを唯一の正当な伝統として法的に固定する行為は、解釈の固定化であると同時に排除の操作でもある。すなわち、制度化された「伝統」は中立的なものではなく、選択と排除の結果として成立している。
同一のイエ制度は、歴史的には「創出された伝統」として、経済的には「所有関係の装置」として、イデオロギー的には「主体形成の装置」として、統治技術としては「人口管理のインフラ」として、そして法哲学的には「解釈の固定化」として、それぞれ異なる水路から理解することができる。本稿であえてこれらを併置したのは、イエ制度が単一の理論によって還元できない複合的対象であることを示すためである。
第二次世界大戦後、日本の民法は大改正され、戸主制度の廃止、男女平等、個人単位の家族へと大きく転換した。この時点で、ナポレオン法典的な父権モデルも、日本のイエ制度も法的には解体された。
法的に資産の長子相続は廃止され、非嫡出子も相続可能となっている。ところが、多くの研究者が認めるように、家父長制―イエ制度は再生産されている。たとえば、公営住宅に三世代で暮らす、継承すべき私的所有が皆無の貧困ファミリーにも、イエがまとわりつく。孫を「この家の跡取り」だと言う。この現象は、私的所有と切断された空間でも「継承の観念」が維持されていることを物語る。イエは単なる経済単位ではなく、意味・象徴の体系になっているのである。これを言い換えると、「ハビトゥス(身体化された構造)」(ピエール・ブルデュー)となる。このとき結果として、彼の貧困は、家父長制・イエ制度によって吸収されるようになる。そして緩衝的に機能してしまう。不平等は、身体化された構造とともに「自然なもの」として再生産され続ける。これはまさに、階級の再生産と社会的固定化への架橋である。
かつてイエは、商品生産の拠点であった。現代の資本主義的生産においては、直接的商品生産から切り離され、労働力のみの再生産の場となっている。この経済的性格が維持されるために、イエは、孫を跡取りとする意識の主体にとって、関係の配置空間の性格を持つようになる。跡取り幻想は、イエの主権たる個人の位置を措定し、それぞれの家族の物語を想像させる。それによって、イエの記憶が刻まれ、生の連続性が感じられるようになる。人びとにとって、イエは経済装置ではなく、結果として、生を自己肯定する意味の装置となり、この装置は、生をイエ制度の従順な担い手に取り込んでしまう。彼は実は、被差別部落民であるが、周縁にあっても、むしろ周縁の存在であるからこそ、より従順な担い手として位置づけられやすい。
この意味でもまた、家父長制の強化は前近代の幻影ではなく、むしろ近代化の産物であった。近代化とは伝統の破壊だけではなく、国家形成の要請に応じて伝統が再編成され、標準化され、制度として固定するプロセスであった。この意味で伝統は発明なのである。明治に発明され制度化されたイエは、国家と資本がその必要にかられて、官僚によって国民を統治するために措定したものであるが、期せずして、それによって最も抑圧されたはずの現代に生きる人びとに、安定や連続性を感じさせる装置になってしまう。あるいは逸脱者であっても、イエの枠内にある限り、国家や資本にとってそれほど脅威ではないということだろう。家父長制によるイエ制度は、日本近代のあまねく国民を統治する技術のひとつなのである。
セドリック・ロビンソンによれば、マルクスは「資本主義において、資本家階級と労働者階級という二つの階級を前提とし、労働者階級内部の差異は primitive accumulation 後には合理化されていく」と理解していたという。だからこそロビンソンは、「レイシャル・キャピタリズム」という理論によってマルクスを批判したのである。しかし、ロビンソンのこのような理解は、むしろ「オーソドックス・マルクス主義者」の理論であり、マルクス自身がそのように述べているわけではない。
マルクスの理論的抽象は、イギリス資本主義をモデルとして「資本主義の論理的構造」を描いたものである。イギリスそのものを描いたわけではない。彼が提示したのは「純粋資本主義」という理念型である。しかし、彼自身の著作を丁寧に読むと、資本主義を単純な二階級モデルに還元してはいないことが理解できる。
マルクスの理論モデル(抽象的な純粋資本主義)と、彼が歴史的現実として認識していた複合的な世界とのあいだには、つねに「緊張関係」が存在する。この緊張を読み解くことこそ「マルクスを読む」ことなのである。エドワード・サイードやガヤトリ・スピヴァクらは、この緊張をそれぞれの理論的立場から表象した批判者たちと言えるだろう。ロビンソンもその一人なのだろうが、上記の見解は誤謬ではないだろうか。『資本論』をはじめとするマルクスの著作のどこを読めば、そのような理解になるのだろうか。マルクスの理論的抽象化の方法はきわめて複雑であり、また難解でもある。たとえば第15章「労働力の価値と剰余価値との量的変動」では四類型の分析を行い、第16章では剰余価値率の計算式を三種類に分けて示している。第20章「労働賃金の国民的差異」では、賃金の抽象性から具体性への展開が示され、第24章「いわゆる原始的蓄積」では、資本主義成立の暴力的過程――囲い込み運動、アイルランドや植民地の搾取――が詳細に描かれている。「暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦である」という有名な一節もここにある。アメリカの黒人奴隷が剰余価値生産に及ぼした大きな影響についても論じられており、この問題は他の章でも繰り返し扱われている。そこからは、マルクスの関心と知見がどのようなものであったか、そしてロビンソンの批判が必ずしも的確ではないことがうかがえる。
資本が剰余価値を搾取し、それを資本へと転化する方法は、人種差別のみに依拠しているわけではない。マルクスは、児童労働や女性労働の分析を通じて、資本の再生産のメカニズムを論じている。『資本論』にはその記述が随所に見られるが、とりわけ第1巻第10章では、工場監督官報告などの資料を用いながら、児童労働の実態が詳細に描かれている。
そのうえで、第13章第3節では、生産の機械化が女性・児童労働を資本のもとに組み込むメカニズム生が論じられ、それが資本の集積を加速させる過程が批判的に分析されている。また、エンゲルスによる編集ではあるが、『資本論』第3巻第14章においても、女性・児童労働の大量採用が以前にも増して剰余価値の供給を拡大させたことが指摘されている。
さらにマルクスは、利潤率・地代・利子といった区分を通じて、単純な二階級構造を超えた複雑な権力・所有関係を分析した。エンゲルスが編集した『資本論』第2巻では、軍隊や規律といった複数形の権力の問題を扱い、国家装置との関係を論じている。ミシェル・フーコーは、こうしたマルクスの分析を独自の権力論において再読し、国家の装置へと再編される権力の多様な領域――所有地、工場、軍隊など――を論じている。
このように、マルクスの方法は「ある条件をいったん括弧に入れ、抽象的に論理構造を析出したうえで、歴史的・人種的・植民地的差異を再導入する」という形をとっていると理解する必要がある。しかしその方法はしばしば、資本主義の成立と維持に不可欠な人種的・植民地的暴力を不可視化してしまう危険もはらんでいる。問題は、マルクスの抽象が単純化ではなく方法的操作であるという点が、十分理解されていないことである。その意味で、真っ当な批判者は、歴史的具体性を再導入しながらマルクスを再読する。人種資本主義論からのマルクス批判も、理論的抽象と歴史的具体性のあいだの「緊張」として読むのが妥当だろう。
この抽象方法を理論的に徹底化したのが宇野弘蔵である。マルクスの価値形態論を正面切って批判した宇野は、相対的にマルクスが正当であると強く支持し「資本主義は、自己の発展に必要な以上に農村の資本主義化を要求するものではない」と述べて理論を発展させている。これは、資本が環境に順応し、自己の形態を変化させる有機的存在であることを意味する。
言い換えれば、「資本の運動法則そのものが社会をどのように規定するか」という問題であり、資本は全社会を均質に資本主義化するわけではない。どのような自然的・社会的条件のもとでも、資本は労働力の搾取を通じて剰余価値を生み、自らを拡大再生産していくのである。
種差別も、部落差別も、児童労働も、資本にとって有益とみなされるならば、資本はそれらを躊躇なく利用する。したがって、「レイシャル・キャピタリズム」という概念だけで資本主義の全体を説明することはできない。
マルクスの理論も、その解釈も、社会を分析するための一つの道具にすぎない。もしその道具でうまく社会が切れないなら、別の道具を用いればよい。それだけのことである。理論の限界を指摘することは重要だが、それをもって鬼の首を取ったかのように論じる必要はない。
近年、ブロックチェーン技術を背景とした「トークン政治」と呼びうる新たな政治参加モデルが登場している。本稿では、その一例としてサナエトークンを取り上げ、デジタル民主主義が内包する理論的危険性を検討する。
トークン政治は、「市民(経済主体)が公民(政治主体)を吸収するデジタル制度」と捉えることができる。すなわち、市民社会が政治制度そのものとして機能するモデルである。トークン型の政治参加では、政治的影響力がトークン保有量によって決定される可能性がある。
サナエトークンの問題は、金融庁の見解を無視した点に本質があるわけではない。むしろ、政治参加を市場で取引されるデジタルコインの付与によって促進し、その声を政治へ直接反映させようとする制度設計に本質がある。この仕組みは、市場の力が政治的影響力へと転化する構造を形成する。
この構造は、市民(bourgeois)が公民(citoyen)を規定するという関係を生み出す点で、マルクスが批判した近代市民社会の構図に近似している。むしろその純化型と言えるかもしれない。すなわち、経済的主体としての市民が政治的主体としての公民をより強く規定する関係である。
デジタル民主主義やブロックチェーン思想の多くは、中央権力の問題を主要な対象として批判する。国家、官僚、中央銀行などの制度的権威を排除し、分散的な社会秩序を志向する点に特徴がある。代表例として、Bitcoinの思想は中央管理への不信から出発している。
しかし、本エッセイの批判的視点はこれとは異なる。問題の中心は国家のみではなく、市場、すなわち市民社会にもある。マルクス的観点から見れば、国家は資本の代理的装置として機能しており、国家の弱体化は必ずしも自由の拡大を意味しない。
むしろ国家のみが弱体化した場合、市場の力が相対的に強化される。この状況は、いわゆる「テック(テクノ)・リバタリアニズム」と呼ばれる思想傾向に対応している。そこでは国家権力の制限が自由の拡大として理解される一方、市場権力の集中は十分に問題化されない。
テック・リバタリアニズムの視点に立てば、国家の役割は主として警察力や軍事力といった最小限の機能へと縮減される。それはネオリベラリズムのように見えるが、同一ではない。政治家、経済学者、大企業を主なプレーヤーとするネオリベラリズムは、形式的には民主主義を否定しない。これに対して、テック・リバタリアニズムは民主主義を非効率と見なす傾向が強い。ここでの主なプレーヤーは、起業家、エンジニア、ハッカーといった主体である。また、「市場の見えざる手」という古典的自由主義の理念も、しばしば時代遅れの概念として退けられる。
難題は、ネオリベラリズムとテック・リバタリアニズムがいかにして共闘関係を形成しつつあるのかという点にある。この意味において、仮想通貨は単なる金融技術ではない。それは市場と国家の関係を再編成し、公民を市民社会の内部へとさらに包摂する、社会秩序を混沌化させる技術的装置として理解することができる。
民主主義は本来危うい制度であるが、現在それは、アナーキーな装いを帯びつつ、さらに不安定な制度へと変容しつつある。デジタル民主主義の評価には、国家権力の問題だけでなく、市場権力の政治化という問題を同時に検討する視点が不可欠である。
この意味で今、民主主義を称揚してきた部落問題研究に進化と真価が問われている。
島崎藤村『破戒』は、被差別部落出身であることを隠して生きる青年教師・瀬川丑松の葛藤を描いた小説である。父から「出自を明かすな」という戒めを受け、良心的な教師として生きる丑松は、差別に抗う思想家の影響を受けつつ、偽りの生に苦しむ。やがて真実を告白する決意をし、社会的地位を失いながらも新たな生を求めてアメリカに旅立つという物語である。
父が「出自を明かすな」と言った理由は、当時の日本社会の現実を反映している。出自が知られれば、教師を辞めさせられる、結婚できない、社会から排除されるなど、丑松の生活そのものが破壊されかねないという危惧があった。父自身が差別の恐ろしさを身をもって知っていたからこそ、それは息子を守るための悲しき「生き残りの知恵」であった。それは、差別社会への諦観から生まれた、「個人の勇気だけでは社会は簡単に変わらない」という現実的判断に基づくものであり、「正直であるより、まず生き延びろ」という切実な願いでもあった。父の戒めは、理想ではなく、「現実に適応するための戒律」でもある。
丑松はその戒めを守り、自分が被差別部落の出身であることを明かさず、教師として子どもたちに接してきた。しかし丑松の周囲では、被差別部落民が教師の中にいるという噂が立ち、その噂は次第に丑松に向かっていく。この差別の現実を前に、ついに「父の戒め」を破る決意をした彼は、自分が教える児童たちに対し、「真実を隠してきたことを申し訳なく思っていると静かに語る。そして、土下座をして謝罪する。これは衝撃的な場面である。
この小説は、「被差別部落小説」として読まれる一方で、丑松という被差別部落出身の青年教師の敗北を通して、袋小路に陥った近代日本社会を描いた文学として読む立場もある。筆者は後者を支持する一人である。その理由を以下のように整理したい。
1) 藤村の関心は「被差別部落」そのものには向いていない『破戒』には、被差別部落の生活世界、共同体内部の文化や人間関係、あるいは経済的現実がほとんど描かれていない。これは藤村が意図的に「描かなかった」可能性がある。藤村の関心は、被差別部落の現実そのものよりも、それを隠蔽し、差別を再生産する近代社会の構造に向けられている。
丑松は、部落出身者の具体的表象というよりも、近代日本社会に適応しようとして、それが叶わない「近代的主体」として配置されている。
2) 差別は「前近代の遺物」ではなく、近代が生み出すものとして描かれる
『破戒』で重要なのは、背景にある明治政府による解放令後の社会である。それは表向きには「身分制が廃止された」「新しい」国家である。にもかかわらず、差別は以前にも増して執拗に機能している。世間の人びとは、残酷な「差別する主体」として描かれる。
つまり藤村は、差別を封建制の残滓としてではなく、差別を克服するはずの近代国家の内部で再編成されたものとして描いたのである。それは、国民国家、学校制度、職業倫理、道徳教育といった近代的装置が、丑松を排除していく過程として表現されている。
3) 丑松の悲劇は、被差別部落出身者が「真正の日本人」になることの不可能性を示している
丑松は、教師として国家の価値を体現する存在であり、「立身出世」や「人格陶冶」といった近代的理念を内面化した青年である。すなわち彼は、近代日本が要請する「模範的国民像」に最も忠実に接近しようとする主体として描かれている。しかしその彼でさえ、出自を隠している限り「偽りの国民」であるという負い目から逃れることはできず、また出自を告白すれば、即座に国民的共同体から排除されるという現実に直面する。
ここに示されているのは、被差別部落出身者が近代日本の内部にとどまる限り、いずれの選択をしても「真正の国民」にはなりえないという構造的アポリアである。近代日本において「完全な日本人になること」の条件はきわめて排他的であり、出自を隠すことも、告白することも、いずれも国民的正当性を保証しない。丑松の悲劇は、こうした近代国民国家の成立条件そのものが孕む暴力性を、最も端的なかたちで可視化している。
4)アメリカは「近代日本の外部」を示す装置として機能している
以上のように、丑松が直面しているのは、近代日本の内部にとどまる限り決して解消されることのないアポリアである。アメリカ行きは、この思想的・制度的袋小路が、「日本から出る」という空間的移動として表現された結果にほかならない。
重要なのは、作中においてアメリカが救済の場として具体的に描かれていない点である。アメリカでの生活や価値体系はほとんど語られず、それは単なる希望の場所として提示されることもない。むしろアメリカは、近代日本という国民国家の論理が及ばなくなる「外部」として機能している。すなわち、教え子に対して土下座という最大限の自己否定を行ってもなお国民となることができない主体が、日本近代そのものからの離脱を選び取らざるをえない地点が、地理的移動として象徴化されているのである。
したがって、丑松のアメリカ行きを、部落差別からの単なる逃走として理解するのは適切ではない。それはむしろ、近代日本が自ら形成した主体が、最後まで所属されず包摂されがきなかったという否定的総括が、物語の結末において空間的に表現されたものと捉えるべきであろう。
さて、ここまで来ると、賢明な読者は島崎藤村のもつ限界にも気づくだろう。藤村は、被差別部落を「比喩」に還元しすぎているのである。生活世界に関心を寄せない、あるいは意図的に描かないことによって、構造的差別とその被害の現実が、思想的素材として消費されているのではないか。言い換えれば、丑松というメタファーによって「近代批判としての『破戒』」は成立するが、それは当事者の現実を犠牲にして成り立っているのではないかという緊張関係がここに見出される。この点こそが、『破戒』を生んだ信州の被差別部落の当事者たちが藤村を忌避した理由であろう。
それでも筆者としては、『破戒』を単なる社会問題小説に矮小化するのではなく、被差別部落を「主題」ではなく「方法」として捉え、近代日本の成立条件そのものを問う文学作品として読みたい。
言い換えれば、本作は、差別を内包した近代日本が人を作り、その同じ力によって人を壊すという逆説を描いた小説である。
カリスマ的な解放運動の活動家の父親が舞鶴市で飯場を営み朝鮮人の日雇い労働者を大勢雇っていたことが明らかになった。その地域は被差別部落ではなかった。彼の飯場は、ちょっとした町のような様相で、父親の名前が通称につけられた。朝鮮人は軍都舞鶴の底辺労働を担っていたと推測される。彼らは歴史の彼方に消えてもはや言葉を発することができない。飯場はとは、いわば底辺労働者のキャンプで、周辺からは孤立し壁も薄く、非衛生的な環境に多くの日雇労働者が詰め込まれた宿泊施設である。飯は、めし、場は場所、空間という意味である。現在でもそれは存続している。
福山市にあった歩兵第41連隊への納入を手がけていたT本店の100人規模製靴工場を所有していた。工場には、十数名の朝鮮人労働者が「雇用」されていた。彼らの待遇は、「奴隷のような状態」であった。当時のある少年は、彼らの待遇を垣間見ていた。それは、子どもの目に異常なこととして映った。例えば、彼らの食事の光景は、日本人労働者よりもはるかに劣悪だったからである。政府は、1944年に戦時徴用を開始した。T本店にいた朝鮮人労働者が徴用工であったかどうかは、その少年には判然としなかった。この工場の経営者は、この事業で大金を手に入れs有名な資産家になった。少年は老人になったが彼らの代補にはなれない。
敗戦後の広島市では、河川大幅改修にために、F地区とそれに隣接するM地区で住民の立ち退きが求められた。両地区は町の名が異なるだけの「地続き」であった。前者は被差別部落で、後者は在日朝鮮人の居住地域であった。朝鮮人の多くは、徴用工として重工業で働いた人々であった。F地区の立ち退きに対する国の保障については、1957年には合意に達していた。本岡拓哉[2016: 200]によると広島県がM地区の「居住者に対して非公式の撤去勧告,除却命令を出しはじめるのは,1960 年に入った頃 [本岡, 2016: 200]で、移転補償の陳情は1964年頃からことであった。M地区で住民の補償問題に詳しいは、次のように述べている。
立退対策委員会のメンバーはもちろん福島地区の立ち退き問題の存在については知っていたが,その運動がどのように行なわれたのか,行政との交渉がどのように進んでいったかについては,ほとんど知識がなく,印象もあまり良いものではなかったようである。また,福島地区での運動に関わった活動家が旭橋下流地区に入って補償交渉を支援することも全くなかった。[本岡,2016:223]
要するに、一つの国家プロジェクトにたいする抵抗運動においても、部落民は優越的な位置にあり。民族の壁を乗り越えることがなかった。結果、国家が格安の保障支払いで経済的な利益を得た。
しばしば部落民と在日朝鮮人の関係が友好的であったと語られることがある。広島のF地区では、特徴的な「でんがく(汁)」を被差別部落女性が、「焼酎」を在日朝鮮人女性が製造して、飲食店を運営したという記録がある[滝尾, 1994: 50] 。確かに生きるための連帯と言える事象があるかもしれない。けれども部落民には、在日朝鮮人の他者として顔が見えていなかったのではないか。顔が見えなければ聞くこともできない。顔は倫理を求める言葉を沈黙によって発語する。それが理解できなければ、部落民は、共に生きるための応答をすることはできない。
マーク・ラムゼイヤーが部落差別論文を書いたことは読者もよくご存知の通りだが、彼は韓国人女性に対するヘイト論文も書いている。何千人もの活動家や研究者が彼に抗議した。しかし、部落研究からの抗議者は10人に満たない。また、韓国人女性側と部落問題側との間に有意な関連は見られなかった。私は、この現状が在日朝鮮人と部落民が非対称的な縁関係にあることを部落民が無自覚であることが一因だと考える。そして、BLLはこの現状を重く受け止めるべきだと考える。
現前する孤独
それは他者の不在によって残された単なる空虚ではない、
存在そのものが自らの輪郭をなぞろうとするプロセスなのだ。
私たちは、他人の視線を通して自分自身を知るようになると教えられている、
しかし、それは時として私たちを自己の本質から遠ざけてしまう。
むしろ、どのような視線も届かないところに立ったときこそ、「私とは誰か」という問いに、その重々しさをもって向き合うことができるのだ。
今、浸透しているのは静寂かもしれない。
しかし、この沈黙こそが存在の根源的な声なのだ。
言葉になる前の感情、名もない欲望・・・・・・。
これらは孤独の静けさの中でしか生まれない。
誰にも理解されないと感じるとき、それは私たちの思考が、まだ言語では到達できない深みに達している証拠なのだ。
まるで深海の底に降りていくように、誰もいないところでしか見えないものがある。
それは真のアイデアであり、魂の輪郭であり、誤解を恐れず言うと、「神」あるいは「存在」と呼ばれてきたものとの出会いの瞬間なのかもしれない。
孤独とは、世界から切り離されることではなく、世界とより深くつながるための隠された出入り口のようなものなのかもしれない。
喧騒の中ではなく、静寂の中で、孤独は存在の核心へと存在を引き寄せる。
だから、孤独を恐れたり、遠ざけたりしないようにしよう。
ただ一歩一歩、孤独の中にとどまろう。
思考が深まるたびに、世界は自己の内面へと深みを増していく。
他の誰かが共感を与える前に、
私たちはまず、自分自身の存在を目撃しなければならない。
そこからすべてが始まるのだ。
広島への原爆投下から80年を迎えようとしている今、ガザでは200万人もの人々が避難し、爆撃を受け、飢餓に瀕している。燃えさかる家の下敷きになり、助けを求める人々、体の中も外も焼かれ水を求める人々。ガザでの大虐殺がテレビやスマホの画面上で展開されているのを目の当たりにすると、私たちは今何をしているのだろうかという問いが必然的に投げかけられる。悲しい現実は、「過ちは繰返しませぬ」と刻まれた石碑に花を手向けながら、私たちはまたしても国家権力の歯車に押しつぶされようとしている民衆を目の当たりにせざるを得ないということである。私たちはどう対応すべきなのだろうか。
以前ガザに住んでいた私は、何が失われてしまったのかリアルに想像することができる。絵のように美しい地中海沿いの美しく歴史的な街、古代の金市場やモスクは、そこに住む人々の消えない光に匹敵するものだった。アメリカ人として、私自身の平和教育は広島で始まったが、ガザで完成していった。焼け焦げた砲弾の破片には、まだ「MADE IN USA」の文字が残っていた。国家の安全保障が「人間の安全保障」を犠牲にする理由になるとは信じられなかった。
高校教師の私は2019年から主にクラブ活動や平和関連の授業の中で、生徒と国連難民学校に通うガザの若者たちとの交流を図ってきた。そして2023年10月6日国連主催のツアーでガザからの中学生3人が広島県東広島市の山中にある本校を訪れた。柔道や茶道、アニメなど日本文化を楽しんだ後、ジェナン、ラマ、ファディの3人がガザの状況についてプレゼンテーションを行った。軍事占領下に置かれ「国家」としての地位を否定された彼らは、野外刑務所に生まれたようなものだ。ラマは「自由への希望は教育だ。教育こそが私たちが輝くチャンスなのです」と語った。ジェナンは「私は5つの戦争を生きてきた」と言った。その時は誰も予測しなかったが、翌日彼女らは6度目の戦争を経験することになる。
訪日中に戦争が始まったためガザに帰れない3人は、ヨルダンのアンマンにある難民キャンプに取り残された。それ以来、何万人もの犠牲者の中にまた友人や家族が含まれているかもしれないと思い、家族に電話をかけることも恐ろしい毎日を過ごしている。私たちは弱々しい試みではあるが3人と定期的にオンラインでの繋がりを続けた。彼らは私たちにアラビア語を教え私たちは彼らに日本語を教えた。しかし、私たちはそれ以上に何かしなければならないと思った。そしてクラウドファンディング・プロジェクト「Chance to Shine」を立ち上げた。国連の難民支援は16歳までで彼らにはそれが間近に迫っているため、その後の教育資金300万円を目標にしている。彼らのうち2人はアンマンの私立学校に合格したが、卒業まで続けるには経済的支援が必要だ。一人は、ガザからエジプトへ、そしてリビアへと逃れることができ家族と合流した。彼女は少なくとも家族と一緒にはいるが、難民であることは不確かな未来に直面していることを意味する。このプロジェクトは単に彼らを支援するだけでなく、彼らがガザと平和のために貢献する機会を得るための投資なのだ。
ガザの人々とのつながりは、このプロジェクトにおける私たちの最大の財産だと考えている。彼らの声には、日本の多くの若者を取り巻く無関心という鎧を突き破る力がある。だから私たちは、日本全国、さらには海外の学校をも招き、このオンライン交流会を続けてきた。先日の交流会で、ポーランドの学生がファディに「何があなたを安心させますか?」と質問した。ファディは「私たちの話に耳を傾けてくれる人がいること。気にかけてくれる人がいること。」と答えた。
このプロジェクトは、ガザの3人の難民の子どもたちの教育を支援するだけではない。このプロジェクトは、日本に住む私たちが漠然とした歴史的概念や、今日の私たちの生活とは関係のない抽象的な概念としてではなく、私たちが置かれている世界に対して人間的な反応を示すチャンスでもある。そして、私たち極端な物質主義や人種差別と常に結びついている軍国主義による「安全保障」という国民国家の物語のベールを越えて見るチャンスでもある。ガザの若者に輝いて欲しいと願うと同時に、それは私たち自身も「輝くチャンス」なのだ。
トランス・ナショナルの時代といわれる今日ではあるが、そう言われるのは、実際には国境線は厳然としてあるからである。この状況下で被差別部落と非被差別部落の文化的差異を創造し強調することは、国内的に新たな境界を設定することにも等しい。にもかかわらず、相変わらずその傾向が止むことはない。伝統の発明と差異の発見は、一瞥したところ「違いを認め合う」という正当な要求のようにみえるが、結果として、被差別部落と非被差別部落の関係を文化的な二項対立の中に置いてしまうのである。そして、最悪の場合差別を受け入れることにもなる。
マルクスは、『経済学・哲学手稿』で抑圧されながらも自己を、従って他者を抑圧する存在として、資本主義の労働者階級を描いた。被差別部落民という概念は階級を意味することはないが、このマルクスの理論にたてば、創造された伝統や文化的差異を認め、それを担うことは、自己をさらに抑圧することになる。そして、非被差別部落民の文化との差異を強調することは、日本人と異なる日本人として自己を仮構し、自己の解放運動が、抑圧されつつも他者を抑圧する無自覚の植民地主義時代をもたらし、世界史的にも自己の解放運動を正しく位置づけることを妨げることにもなるだろう。
一方で、伝統の発明と差異の発見は、非被差別部落民にも、多文化主義の下での文化本質主義による罪過を犯させる。ジョック・ヤングは、『排除型社会-後期近代における犯罪・雇用・差異』で後期近代において、文化本質主義がマイノリティを悪魔化するメカニズムについて論じた。文化本質主義は文化的差異を口実に生まれつき優越性をもっていると信じさせるだけではなく、他方で同時に、他の人々を、本質的に邪悪で、愚かで犯罪的な人々として、つまり悪魔として描いてしまう。ヤングの分析対象は、アメリカのマイノリティであるが、マイノリティの悪魔化は、日本においてもすでに始まっている。かつて筆者は、警備保障会社の社員が、安全を商品化するために、被差別部落民を治安の対象に仕立て上げ、危機不安が商品化されるプロセスをつまびらかにした。
フーコーは、権力とは本質的に関係性であるとして、人間が取り結ぶ日常の中の統治性を見た。そして、大きな統治権力、すなわち国家やその政策は、この諸関係の中にしか存在しないと述べている。そして、「知」がどのような効果を及ぼしているかが関心事であると述べている。要するに、文化と権力は容易に繋がり、大きな権力(国家)がそこで顔を出す。
被差別部落の文化の研究は、文化の意味規定、および「知」の領域でどのような結果を生むのか。今そのことが問われている。そして本文では、被差別部落の「文化をめぐる言説を生産する行為の社会的意味関連を問う必要性を明らかにした。筆者は、「知」が被差別部落の「文化」の虚構を創造し、それが真実であると喧伝するとき、それが被差別部落民への暴力となると考えるのである。
ある市の職員間で発生した興味深い現象を耳にした。
労働者は、長く勤めると当然、昇進の機会を得ることがある。彼らはたいてい昇進を歓迎する。しかしこの市ではある職員が昇進の機会を自ら拒否してきた。昇進を拒絶する理由は誰にも語らなかった。この人を仮にAさんとしておこう。
Aさんの同僚に被差別部落出身者がいた。その人を、仮にBさんとしておこう。二人は半農地域の隣接する集落に住む。お互いをよく知る関係でもある。そのBさんにも昇進の機会が訪れた。Bさんは昇進を快諾した。するとAさんはBさんの昇進に対して異議を表明した。Bさんが昇進するのは納得できないと主張した。Aさんは、その理由を明らかにしなかった。一方Bさんは予想外の異議申し立てに動揺した。また何の昇進に権限もないAさんの異議を不愉快にも思った。Bさんは部落解放運動を積極的に支持していた。Aさんが理由を述べないでただ自分の昇進に反対するのは自分が被差別部落出身だからではないかと疑問を抱いた。そしてその胸の内を明らかにした。そうするとAさんは、差別意識を否定したうえで、すぐさま知り合いのCさんにそのことを相談した。それは明らかに間を取り持ってほしいということだった。
Cさんは、自分が選ばれた理由を、AさんBさんの共通の知り合いだったからだと考えている。立場性を明確にするために述べておくとCさんは被差別部落民ではない。関係者の若干の議論を経てAさんの発言は、部落差別とは無関係だという結論に至った。確かな証拠はなかった。しかし、Cさんは、これは差別事件であると断言する。理由は、AさんがBさんの昇進を反対する権限を持たないにも関わらず理由を告げずに反対の意思を公言すること自体、社会に埋め込まれた差別の力を感じざるをえないからだ。そして何よりAさんが部落差別とは関係がないと断言できるなら、わざわざ自分のところに相談に来る必要はない。そして、共通の知り合いの自分に相談に来るということが自分の後ろめたさの表れであり、Bさんの感情を慰撫してほしいという願望をもってのことだからだと言う。
私は、Cさんの見解に同意する。これまでは、他の人事に一切クレームを付けたことがなかったAさんが、この件に関してのみクレームをつけるのは、同僚であるにもかかわらず、Bさんに対する優越的な立場にあるという意識を反映している。Bさんが昇進すると、自ら昇進を拒否してきたためにAさんは彼の部下になる。差別事件かどうかの判定基準は不明だが、少なくともAさんとBさんの関係は、元来、非対称的な関係にあることが考慮されたのだろうか。Bさんの反撃は、おそらく想定外だった。そうでなければそのような発言はしない。そのとき、急に恐怖感でも抱いたのだろう。Cさんもそのように語る。もしそうなら、その恐怖感はどこから来ているのだろうか。
回答は、簡単である。日常的には何気なく交流していても、潜勢力として存在する、部落という言語とそれが形成するイメージの意味作用が現勢力となって表出するのである。それも、ちょっとしたことで……。
最近、研究者や活動家以外の人々と会話をする機会が増えた。時々拙宅を尋ねてくれ、またある人は、街で偶然あって喫茶店などでしばし会話をする。そうした人は、あまり無駄話をすることがない。私の著書の批判だったり、理解できない事柄の質問だったりする。しかしそれだけではなく、私にとっては、大変根源的な批判を受けることがある。それは最近とても厳しくなっている。
私は、他人の人生に分け入り、被差別の事実や、あるいはそれによって形成されてきた精神構造などに興味がある。ゆえに、インタビューをお願いすることがある。そのことをある女性にお願いすると、その返事にショックを受けた。彼女は、「語れば語るほど差別を助長する」と言うのだ。「私の語ったことが、論文や記事になって社会に出ると、どのように表現されても、それを読む人に部落差別を再び思い出させてしまう。それを読んで希望をもったことがない」と続けた。これを解釈すると、被差別部落の彼や彼女の生きてきた記憶を記録に変換するときに、差別を再生産し、どうじに当事者の精神に害を及ぼすというのだ。またある人は、「語ることはむなしい」と述べた。厳しい発言に、私には、返す言葉が見当たらなかった。
私は、彼女の話を聞きながら、山田富秋さんの『日常性批判』を思い出していた。それは、安曇さんという障害を持つ読書好き女性の発言であった。それにはどの本を読んでも障害や病気や死は常に不幸と悲しみの各地悲惨と絶望としてしか描かれない。障害を持つ人たちに自分たちがかけがえのない存在だというメッセージを送る本など一冊もなかったという行であった。安曇さんはそうした状況のもとで自ら死を選ぶ方向に追い込まれていく。
読み手として振り返り、私が面白いと思った研究論文の背景には、より複雑化し深刻化する差別の再生産が存在する。こう考えると、研究は他人の不幸の上に成り立っている。しかし、研究を中止することはその状況をさらに悪化させるだろう。そして、私は、読む人を勇気づける研究は必ず可能だと信ずる。資本論は搾取され抑圧される労働者の不幸をあますところなく描いているが、それを読んだ私は希望獲得した。
私は、フィールドワークで何度か、インタビュー相手の被差別部落の人々から「私を部落と呼ぶな」と言われたことがある。彼ら彼女らは、部落解放運動と距離を保つ人々であった。その人々は、例えば、自分たちの祖先は隷落した武士の子孫であるとの伝説を信じ、その汚名を晴らすべく教育をつけ勤勉に働いてきた。よく似た伝説が非被差別部落にも語り継がれている場合もあり、驚くこともあった。また、旦那寺の住職も、その人々がやんごとない一族の子孫だと聞かさてきたという。私は、これらの伝説が史実かどうかにあまり興味がない。ただ、そのように信じてきたことには意味があると思っている。
そんなことより、「私を部落と呼ぶな」いうことに、私は、被差別部落民のリアリティを意識させられる。何度か述べてきたが、それは、現在、「部落民」と呼ばれる人々が、「部落民」という呼称を自ら名乗ったから「部落民」になったからではないからだ。黒川みどりさんが明らかにしたように「部落民」という記号が登場するのは、1907年で、文字どおり突然、公式に「部落民」の歴史がはじまる。
ジャック・デリダは、『悲しき熱帯』におけるレヴィ・ストロースの自己批判をさらに批判する。レヴィ・ストロースが子どもの名前を発話したことによる暴力事件における真の暴力は、子どもに「名づける第一の暴力が存在した」ことにあるという。デリダは、それが「原暴力」というのだ。この論理を援用するなら、「部落」という言語の発明、それ自体が「原暴力」と言える。
翻って、全国水平社以来の部落解放運動では、賤称としての「部落」を誇りとしての「部落」に逆転させてきたのも事実だろう。それは、価値転換させた「部落」以外に自己を表彰する言葉がなかったからでもあると考えられる。私は、今更、「部落」に代わる他の言葉を創造すべきだと主張するのではない。20世紀初頭に「部落」と名付ける「原暴力」があって、その一撃、それが今日の状況を構成しているのではないだろうか、と言いたいのである。
日本の祭りに不可欠な人々がいる(た)。それは、テキヤと呼ばれる人々である。場合によっては、香具師も呼ばれる。祭りや縁日に屋台を出店し、場を盛り上げる多様な商売の集団である。その場の安全をコントロールし、衛生を維持してきた。そして糧を得る。祭りが終わり、屋台が移動すると、あとの清掃をするのも彼らだった。ときに、祭りに介入する理不尽な暴力を排除するのも彼らであった。
彼らは、日常的には自分の住居に定住し、彼ら自身のいわば経済的コミュニティに所属し、そのコミュニティの仕法に従ってビジネスをする。コミュニティには、強い指導力をもつ責任者が存在する。そして、極めて市民に近しい存在だった。たとえば、私は、縁日の啖呵売から買った包丁がなまくらだとしても、文句を言うものではないと教えられた。その理由は、支払った代金は、そのなまくら包丁で、かまぼこ板のような厚さの木切れを野菜でも切るかのようにザクザクと切り刻む技術=芸と、歯切れよくときに小気味よく、客を彼らの世界に引き込み喜ばせるエンターテイメントの観覧料だからと諭された。
しかしこのようなことは、現代なら詐欺として訴えられる可能性が高いだろう。なぜなら、彼らが暴力団に数えられているからである。私がこどものころは、テキヤは、ヤクザとは完全に異なったカテゴリーにあったが、1993年の暴対法成立以降、彼らも暴力団の一員に数えられるようになった。国家は法律を強化しヤクザを追い詰めようとし、一方、暴力団排除条例を都道府県単位に制定し、ヤクザと接触する市民を罰しようとした。廣末登さんの『テキヤの掟』には、テキヤ廃業後、建設業を経営した人が、発注主に圧力をかけ暴力団関係者として、ビジネスから排除される様が実証的に描かれている。廣末さんの記述は、今現在に起きている矛盾として提示される。そして、テキヤは暴力団ではない、と断言する。
私は、このテキヤ排除の過程が、国の同和対策事業の廃止と、部落解放運動の味方を装っていた人々の裏切り、そして、2018年になされたマーク・ラムザイヤーによる部落民=暴力団というキャンペーンによる被差別部落民排除との同時進行性に気づかざるをえないのである。また私は、警備保障会社の従業員が被差別部落を社会安全上の監視対象として認識し行動していると書いたことがあるが、その、2006年のインタビューが思い出されたのである。わたしは、テキヤ排除に知の暴力が働いていると考える。それは、岩井弘融の研究スタンスに見ることができる。岩井の『病理集団の構造』その緻密な研究において他に類を見ないものであるが、ヤクザもテキヤも社会的病理集団として認識していることに重大な問題があったと考える。テキヤは暴力団ではないと断言できるし、また廣末さんの著書を参照すると病理集団でもない。アカデミズムは、関係性論や、本質主義的な部落認識で被差別部落のイメージを歪めてきたように、テキヤを排除するイデオロギーを醸成している一要因もまた知の世界にあるのかも知れない。
ところで、廣末さんの著書は、彼自身がテキヤとしての暮らしを体験し、テキヤのライフヒストリーに誠実に寄り添った結果である。物語に引き込まれるのはそのためだろう。しかし、一言だけ異論を挟みたい。それは、テキヤを「裏社会」とする認識である。廣末さんは、それをテキヤの隠語の存在に語らせる。隠語は、多くの仕事につきものである。大工にも、床屋にもある。タクシードライバーも、百貨店の販売委員もそれぞれの隠語を持っている。アメリカのジャズメンは、「ピッグ・ラテン(Pig Latin)」を好んで使った。日本のジャズメンもこれを模倣し逆さ言葉を使用した。ジャズは、ズージャである。ベースは「スーベー」である。数字の代わりに「キー」を使う。
私は思う。社会は裏と表の二項対立で存在するののではない。「裏社会」という言葉を使ってしまった場合、表社会には、「裏社会」的な何ものかが全く関わりないものとして想像されるからである。もちろん実態としてのテキヤ世界は存在する。廣末さんが記述したテキヤは、「市民社会」に住み家業に勤しむ。ある人は、人情豊かで、倫理的で面倒見がよい。そして、普通の市民にも見られる現象として博打にのめり込む。要するにどこから裏で、どこから表かわからない存在なのだ。表社会にも裏社会の猛者が腰がひけるほどの悪党がいる。
数日前、友人から、めったに見ることのない7月8日発売の『週刊ポスト』のある記事を読むよう勧められた。それは、ある部落差別にかんする記事であった。どうせ、部落解放運動や「同和行政」への根拠がないゴシップ記事だと思っていたが、そうではなかった。「封印された大阪市職員『ぶらく差別発言』という大見出しの記事であった。大阪港湾局設備課の職員2人が、同僚について差別発言を繰り返していた事件のことであった。その事実については、すでに聞いていたが、まさにその詳細であった。
記事によると、2人の港湾局設備課の職員は3月18日以降、3日間にわたり、設備点検に使う公用車内で、一人の職員が、別の同僚を名指しし、差別発言を数十回行った。同乗していた上司は、それをたしなめず、むしろ助長させる差別発言をしていた。何故、自動車という密室での行為が表沙汰になったのかは、彼らの、いかんともし難いお粗末さに起因する。彼らの言動は、すべて車載のドライブレコーダーにしっかりと記録されていたのであった。
通常、差別語とされる、例えば「穢多」という語が使用されたばあい、それが差別かどうかは文脈で慎重に判断される。しかし、今回の事件は、その手続きが大幅に省略できる。なぜなら、「どえった嫌いや」と75回も叫び、明確に「差別大好きーやもんね。だって、そういう風に育ってきてんもん僕ら」と彼らが差別意識が彼らのハビトゥスであると誇らしげに自己暴露し、かつ、しかも、発言が明るみの出ると「人権研修を受けなあかん」ほどの悪意であると知った上で、さも楽しげに会話しているからである。まさに剥き出しの差別である。大阪維新が支配する大阪市は、この事件を2ヶ月以上公表しなかったし、また発言の内容も全体を開示していない模様である。彼らは彼等で、部落差別の存在を認めたくないのである。
この差別事件は、国民融合論が部落差別を解消過程にある現象であると断定したこととを、完全に否定していると、私は考える。同時に「両側から超える」という藤田敬一が発明した「理論」がいかに不毛であったか、そして、野口道彦、八木晃介、三浦耕吉郎らの被差別部落民は、人間の関係性において存在するので「関係カテゴリー」と理解するという議論の無効性をあらためて再確認する。
この事件の全容を解明することは、差別がどのように存在するのか現実をより明白にすると考える。この事件の「えげつなさ」は、私の現状認識に確信を深めた。月並みな言い方をすると、これは氷山の一角であって、特殊な事件ではない。
映画:『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲:監督)は、三重県M地区、京都府S地区、大阪府K地区の比較的大型の被差別部落を舞台にした「ドキュメンタリー映画」であるが、むしろ「語り」の映画である。被差別部落民の語り、差別する側の語りで全編が構成されている。上映案内の文脈では、2007年制作の『にくのひと』が撮影現場の屠畜場所在地から被差別部落所在地が特定されるという抗議によって、2010年に公開が中止になったことで2016年に『全国部落調査』復刻事件に興味をもち、再度部落問題の映像制作を目指したのがこの映画だという。
映画は、被差別側の語りに差別する側の語りが延々と被さる。その制作手法について満若がウェブで語るところでは、「差別を受けている当事者が差別する側の言葉を聞くのは酷だし、そこに不快感や怒りがあるのは当然の感情なので、それは、「差別されている側の『本当の痛み』はわから」ない「非当事者である自分の仕事だろうという発想にあるとのべている。その痛みを「共有することは不可能で、むしろ非当事者が自分事として捉えることができるのは、無関心だったり、差別する側の意識だ」と断言している。なるほど、久しぶりに3時間以上(正確にいうと3時間25分)も暗澹たる気持ちにさせてもらった理由はここにある。結局映画を通して、差別される側は、直接差別する側の差別する語りに付き合わされる。満若による「ご配慮」は、たちどころに破綻する。
暗澹たる気持を決して忘れないように簡単に感想をのべておく。
1 リベンジ映画である、
この映画のテーマが理解できない。一体作者、満若は何を言いたいのか。結局、映画『私のはなし 部落のはなし』は、満若のリベンジ映画なのだ。前作(『にくのひと』)が上映中止になった「被差別部落所在地が特定されるという抗議の重要な内容は、当時高校生だった娘さんが部落差別によって自殺に追い込まれた兵庫県の男性が明確に語っている。その悲劇の記憶と再発への懸念という一点において、前作「にくのひと」映画の上映中止は合理的である。(私なら、それを知ったら安易なドキュメンタリー映画は二度と作らない)満若は、前作の上映中止要請に相当抵抗したようだが、私に言わせていただくと、ことの深刻性に気がつかないこと自体、部落問題にかかわる資格がない。その後満若は、部落問題を『全国部落調査』復刻事件で学んだそうだが、知識はともかく、結局自己を対象化することがなかったようだ。
最終部のシーンは、この映画の本質を見事に表現している。ある集まりで「足を踏まれた者の痛みは踏んだ者にはわからない」という被差別部落の若者の発言に「私のことが分かるのか」と非被差別部落の女性から反論が出たという。発言する登場者は、これに屈服した。被差別部落民が言う「痛み」は、部落差別の痛みでる。反論した非被差別部落民の痛みは、それに比べるべき痛みではない。かりに女性としての痛みであるなら、それはそれで、別の議論になる。例えば女性差別と部落差別の議論が可能である。自分の子どもの結婚は、どの親にも心配事である。だが、被差別部落の親の心配と非被差別部落の親の心配は非対象である。被差別者、被害者を想像できないものは差別者である。部落問題は、個人の達成感を満たす道具ではない。
2 なぜネガティブなトピックしかないのか
この映画には、部落解放運動についてのネガティブなトピックしかない。うんざりするほど冗長な全編を通して、満若は部落解放運動が社会全体に提供してきたポジティブな影響を無視し続けた。映画は、まさにマーク・ラムザイヤーが書いた冗長な論文に似ている。ラムザイヤーのヤクザについての記述を除けば瓜二つである。戦後のみをとりあげても、部落解放運動は日本の「人権状況の前進に大きな役割を果たしてきた。それは、社会制度をテーマとした問題だけではない。とくに、マイノリティの運動は、部落解放運動が発展させた糾弾の思想に学んでいる。そのことに一切触れずに、「不祥事」のイメージが膨らむように構成・演出されている。ネガティブキャンペーンは、しばしば差別者がとる常套手段である。そして、全体を通して本質主義である。
もしも、映画が部落差別と真摯に向き合うというなら、『全国部落調査』復刻事件の張本人、宮部某を登場させる必然性はない。宮部という人物の行為の差別性は、不十分ではあったが、裁判の判決から十分うかがい知れる。なぜあれごとき人物をわざわざ登場させるのか。それは、出演者として「敬意を払」うからだそうだ。そしてさまざまな人物や主張をまるで店先に陳列するように「敬意を払」って並列的に示して、オーディエンスに選択を求めているのである。一見公平にみるが、じつはそうではない。それは、客観主義である。満若の思想は何処にあるのか。陳列された「商品」選択は自己責任になる。そして、差別主義がヘゲモニーを握る状況、たとえば圧倒的に差別的なSNSが主流の時代で、そのやり口にはオーディエンスが差別主義を選択するような仕組みが構造的に埋め込まれている。
尾道差別アンケート事件を思い出そう。ネガティブな選択肢しかないアンケートの差別性が問題にされたではないか。われわれはその経験から、差別問題における客観主義は結果的に差別主義を促進することを知っている。
3 貧困と部落差別が無関係という宮部の発言を垂れ流す
貧困と差別については、宮部の「無関係説」を一方的に流すだけで、明確な反論を誰にも語らせていない。つまり全編を通して、宮部のストーリーをなぞっている。映画全体の文脈は、部落差別が存在しないという宮部の説に沿った演出になっている。だが存在しないのに「部落探訪」にこだわる宮部の矛盾を満若は放任したままである。ゆえに、満若が宮部を批判的にはみていないとえる。
いまなお、被差別部落の貧困は凄まじい。貧困は被差別部落に集中し、差別と相関関係にあることをデータが語っている。
4 部落差別と資本の関係に触れない
みどりさんの解説では、近代の部落差別を天皇制との関係で説明しようとはしているが、部落差差別と資本(主義)の問題が欠落している。そして、天皇制を廃止しても差別は残るという。推測だが、ホワイトボードまで準備して、黒川さんに満若が欲することのみ説明させて映像に纏めたように感じる。演出がわざとらしい。だが天皇制は、華族制度と被差別部落の関係という近代身分の「徴」であり、解体されるべきである。(撮影ではしているが編集で割愛されたのかもしれない)。中上健次がどうしたというのか。天皇制の議論の文脈で、どうにもすることができない天皇制と部落差別、という中上の文化論を持ち出すのは明らかに誤りである。中上も資本主義の問題に言及している。それに上部構造だけをいくら議論しても意味がない。われわれが議論すべきは、資本主義的生産関係である。社会の構造である。文化論はそれからである。
それを端的に表すのが、京都S地区でのシーンである。S地区の住民はなぜ愛する居住地を離れ移転しなければならないのか。慣れ親しんだ地域を失う彼女の悲しみは何故なのか。問題の本質が一切描かれない。理由は簡単である。それは、ジェントリフィケーションである。資本と権力の欲求で住民は移住する。箕面のK地区についても、非被差別部落民との「協働創造」「市民との協働」が強調されたが、それは、被差別部落の生活の改革をめざす課題を結集軸にした共同闘争ではない。そこには物販を主題にした利害関係が埋め込まれているだけである。このようなやり方は、一般社会の何処にでもある。ここから何が生まれるのか。なぜそれが言えないのか。この映画の背景にある意図を想像する。
5 論点のすり替え
在日朝鮮人が多く暮らすH地区の話題は論点のすり替えである。S地区が抱える本質的な問題が何かを議論せずに、議論を在日朝鮮人問題にまで拡大している。議論が深ければ歓迎する。だが描かれたそれは、浅薄極まりない。S地区に住んだ経験がある私は、両者間にあった軋轢を知っている。双方が決して共感をもって生きていたわけではなかった。切り込むならそこまでを映像化すべきだった。それが一切語られない。満若はそれを放棄し冗長な映像で時間を無駄にした。
全編を通して、被差別部落の人々の語りに何が埋め込まれているのか、それを「普通」のオーディエンスが理解するのは難しい。それを計算して、オーディエンスの(差別的)情緒に訴えようとしたのなら背筋がぞっとする。K地区における被差別部落と非被差別部落の青年たちの会話に表れていた非対象性、あまりにも違う意識の構造、また、三重の前川の近隣で非被差別部落の女性たちが語る「被害」は作者である満若の偽らざるリベンジの声だろう。
6 何が埋め込まれているのか
部落解放運動の不祥事があったのは事実だろう。だがそれがどうしたというのか。刑事犯は逮捕され、刑罰を受け監獄に収監されたものいる。法治国家としては当然で、それで事件も終わっている。もっとも、たとえばハンナン事件は、被差別部落出身者が業界と行政の汚泥をのまされた事件であった。マートンの業績を引くまでもなく、犯罪はホワイトカラーに圧倒的に多い。だが、ひとたび被差別部落民に関係して事件が起きると、その責任を全被差別部落民が永久に負わされる。満若は、バランスをとったつもりで黒川さんに世良田村事件を例にあげさせたが、現代社会のヘゲモニーは決してそれに多くの共感を与えようとはしない。広島で発生した前代未聞の買収金額による選挙違反事件は、すでに市民の記憶の彼方にある。だが被差別部落民の不祥事は、何十年の時間が経過しても常にその記憶が再生産される。部落差別はこのように構造化している。
部落差別は人々の身体に埋め込まれている。だからこそ不意に差別発言や行為が発生する。被差別部落民も障害者差別、民族差別をする可能性はある。また、男性の被差別部落民は、女性の被差別部落民を蔑視するかも知れない。しかしそれは、自己と他者が入れ替わることを意味しているのではない。こうした問題は、被差別の立場に立つ議論ではインターセクショナリティの、また差別加害の問題からはポジショナリティの問題として議論するものである。インターセクショナリティの概念は、差異を必要とする社会構造を分析するうえで差異を語るその位置づけの問題である。例えばマイノリティである被差別部落民であり、女性であり、障害者であることで受ける加算的差別の分析方法の問題として提起されていると考える。
熊本理抄は、上野千鶴子は部落解放運動内部の女性差別を論じるが、女性解放運動内部の部落差別は論じないと批判している。さらに熊本は、日本で流通する複合は、multiplediscrimination(複数の差別)の翻訳で、complexdiscriminationとは別の概念であると分析している。前者による理解は、一人の人間主体を複数に分けることになり、キンバリー・クレンショーによって導入されたブラック・フェミニズムのインターセクショナリティ=「交差性」概念を使い切ることができないとの主張であろう。重要なのは、「差別の複数性にあるのではなく、交差性に」あり、それは、「一人の人間に相互に絡みあって立ち現れる抑圧のアマルガム」の分析にあり、そこに解放を求める主体形成の可能性を見出す。筆者は、熊本の主張がきわめて鋭い知見に基づいていると考える。
つまり、「被差別部落民であり、女性であり、障害者である」という状態はそれぞれが別のカテゴリーとして一人の人間に備わっていると認識するのではなく、「アマルガム」、すなわち合金のように融合した一つのカテゴリーと認識されるべきといえる。ポジショナリティの議論は逆に被差別部落民でありながら男性であるという抑圧的「アマルガム」としてどのように自己認識し告発にどのように応えるかという問題であろう。もちろんこの考え方にも疑問の余地はある。それは、マイノリティのカテゴリーが際限なく細分化され、結局、個人化または切片化する危険性である。しかし、筆者の議論からは、「アマルガム」概念は、インターセクショナリティの問題を過誤なく言い当てていると考えている。
熊本は、被差別部落女性としてインターセクショナリティを問う立場から、「絶対的な被差別者がいるという考え方に私はくみしない」としたうえで、しかしその考え方を安易に述べることに欠落していることがあるという。それは、「抑圧がどうつくられてきて、権力をどうつくってきたのか」「権力構造が具体的にどのように作動するか」という問題だという。
マイノリティとマジョリティの間は、非対称的な関係である。それは、暴力的で入れ替えが不可能な関係である。被差別部落女性は、アマルガムなカテゴリーに置かれている。それは、非被差別部落の男性はもとより女性からも差別を受け、被差別部落内では、被差別部落男性による暴力的な支配の対象である。被差別部落の女性の闘いは、女性解放運動からも存在を無視されることがあった。つまり、筆者は、複雑に融合する被害と共謀関係を「関係性」の議論では説明できないと考える。