エッセイ投稿

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 映画:『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲:監督)は、三重県M地区、京都府S地区、大阪府K地区の比較的大型の被差別部落を舞台にした「ドキュメンタリー映画」であるが、むしろ「語り」の映画である。被差別部落民の語り、差別する側の語りで全編が構成されている。上映案内の文脈では、2007年制作の『にくのひと』が撮影現場の屠畜場所在地から被差別部落所在地が特定されるという抗議によって、2010年に公開が中止になったことで2016年に『全国部落調査』復刻事件に興味をもち、再度部落問題の映像制作を目指したのがこの映画だという。
 映画は、被差別側の語りに差別する側の語りが延々と被さる。その制作手法について満若がウェブで語るところでは、「差別を受けている当事者が差別する側の言葉を聞くのは酷だし、そこに不快感や怒りがあるのは当然の感情なので、それは、「差別されている側の『本当の痛み』はわから」ない「非当事者である自分の仕事だろうという発想にあるとのべている。その痛みを「共有することは不可能で、むしろ非当事者が自分事として捉えることができるのは、無関心だったり、差別する側の意識だ」と断言している。なるほど、久しぶりに3時間以上(正確にいうと3時間25分)も暗澹たる気持ちにさせてもらった理由はここにある。結局映画を通して、差別される側は、直接差別する側の差別する語りに付き合わされる。満若による「ご配慮」は、たちどころに破綻する。
 暗澹たる気持を決して忘れないように簡単に感想をのべておく。

1 リベンジ映画である、
 この映画のテーマが理解できない。一体作者、満若は何を言いたいのか。結局、映画『私のはなし 部落のはなし』は、満若のリベンジ映画なのだ。前作(『にくのひと』)が上映中止になった「被差別部落所在地が特定されるという抗議の重要な内容は、当時高校生だった娘さんが部落差別によって自殺に追い込まれた兵庫県の男性が明確に語っている。その悲劇の記憶と再発への懸念という一点において、前作「にくのひと」映画の上映中止は合理的である。(私なら、それを知ったら安易なドキュメンタリー映画は二度と作らない)満若は、前作の上映中止要請に相当抵抗したようだが、私に言わせていただくと、ことの深刻性に気がつかないこと自体、部落問題にかかわる資格がない。その後満若は、部落問題を『全国部落調査』復刻事件で学んだそうだが、知識はともかく、結局自己を対象化することがなかったようだ。
 最終部のシーンは、この映画の本質を見事に表現している。ある集まりで「足を踏まれた者の痛みは踏んだ者にはわからない」という被差別部落の若者の発言に「私のことが分かるのか」と非被差別部落の女性から反論が出たという。発言する登場者は、これに屈服した。被差別部落民が言う「痛み」は、部落差別の痛みでる。反論した非被差別部落民の痛みは、それに比べるべき痛みではない。かりに女性としての痛みであるなら、それはそれで、別の議論になる。例えば女性差別と部落差別の議論が可能である。自分の子どもの結婚は、どの親にも心配事である。だが、被差別部落の親の心配と非被差別部落の親の心配は非対象である。被差別者、被害者を想像できないものは差別者である。部落問題は、個人の達成感を満たす道具ではない。

2 なぜネガティブなトピックしかないのか
 この映画には、部落解放運動についてのネガティブなトピックしかない。うんざりするほど冗長な全編を通して、満若は部落解放運動が社会全体に提供してきたポジティブな影響を無視し続けた。映画は、まさにマーク・ラムザイヤーが書いた冗長な論文に似ている。ラムザイヤーのヤクザについての記述を除けば瓜二つである。戦後のみをとりあげても、部落解放運動は日本の「人権状況の前進に大きな役割を果たしてきた。それは、社会制度をテーマとした問題だけではない。とくに、マイノリティの運動は、部落解放運動が発展させた糾弾の思想に学んでいる。そのことに一切触れずに、「不祥事」のイメージが膨らむように構成・演出されている。ネガティブキャンペーンは、しばしば差別者がとる常套手段である。そして、全体を通して本質主義である。
 もしも、映画が部落差別と真摯に向き合うというなら、『全国部落調査』復刻事件の張本人、宮部某を登場させる必然性はない。宮部という人物の行為の差別性は、不十分ではあったが、裁判の判決から十分うかがい知れる。なぜあれごとき人物をわざわざ登場させるのか。それは、出演者として「敬意を払」うからだそうだ。そしてさまざまな人物や主張をまるで店先に陳列するように「敬意を払」って並列的に示して、オーディエンスに選択を求めているのである。一見公平にみるが、じつはそうではない。それは、客観主義である。満若の思想は何処にあるのか。陳列された「商品」選択は自己責任になる。そして、差別主義がヘゲモニーを握る状況、たとえば圧倒的に差別的なSNSが主流の時代で、そのやり口にはオーディエンスが差別主義を選択するような仕組みが構造的に埋め込まれている。
 尾道差別アンケート事件を思い出そう。ネガティブな選択肢しかないアンケートの差別性が問題にされたではないか。われわれはその経験から、差別問題における客観主義は結果的に差別主義を促進することを知っている。

3 貧困と部落差別が無関係という宮部の発言を垂れ流す
 貧困と差別については、宮部の「無関係説」を一方的に流すだけで、明確な反論を誰にも語らせていない。つまり全編を通して、宮部のストーリーをなぞっている。映画全体の文脈は、部落差別が存在しないという宮部の説に沿った演出になっている。だが存在しないのに「部落探訪」にこだわる宮部の矛盾を満若は放任したままである。ゆえに、満若が宮部を批判的にはみていないとえる。
 いまなお、被差別部落の貧困は凄まじい。貧困は被差別部落に集中し、差別と相関関係にあることをデータが語っている。

4 部落差別と資本の関係に触れない
 みどりさんの解説では、近代の部落差別を天皇制との関係で説明しようとはしているが、部落差差別と資本(主義)の問題が欠落している。そして、天皇制を廃止しても差別は残るという。推測だが、ホワイトボードまで準備して、黒川さんに満若が欲することのみ説明させて映像に纏めたように感じる。演出がわざとらしい。だが天皇制は、華族制度と被差別部落の関係という近代身分の「徴」であり、解体されるべきである。(撮影ではしているが編集で割愛されたのかもしれない)。中上健次がどうしたというのか。天皇制の議論の文脈で、どうにもすることができない天皇制と部落差別、という中上の文化論を持ち出すのは明らかに誤りである。中上も資本主義の問題に言及している。それに上部構造だけをいくら議論しても意味がない。われわれが議論すべきは、資本主義的生産関係である。社会の構造である。文化論はそれからである。
 それを端的に表すのが、京都S地区でのシーンである。S地区の住民はなぜ愛する居住地を離れ移転しなければならないのか。慣れ親しんだ地域を失う彼女の悲しみは何故なのか。問題の本質が一切描かれない。理由は簡単である。それは、ジェントリフィケーションである。資本と権力の欲求で住民は移住する。箕面のK地区についても、非被差別部落民との「協働創造」「市民との協働」が強調されたが、それは、被差別部落の生活の改革をめざす課題を結集軸にした共同闘争ではない。そこには物販を主題にした利害関係が埋め込まれているだけである。このようなやり方は、一般社会の何処にでもある。ここから何が生まれるのか。なぜそれが言えないのか。この映画の背景にある意図を想像する。

5 論点のすり替え
 在日朝鮮人が多く暮らすH地区の話題は論点のすり替えである。S地区が抱える本質的な問題が何かを議論せずに、議論を在日朝鮮人問題にまで拡大している。議論が深ければ歓迎する。だが描かれたそれは、浅薄極まりない。S地区に住んだ経験がある私は、両者間にあった軋轢を知っている。双方が決して共感をもって生きていたわけではなかった。切り込むならそこまでを映像化すべきだった。それが一切語られない。満若はそれを放棄し冗長な映像で時間を無駄にした。
 全編を通して、被差別部落の人々の語りに何が埋め込まれているのか、それを「普通」のオーディエンスが理解するのは難しい。それを計算して、オーディエンスの(差別的)情緒に訴えようとしたのなら背筋がぞっとする。K地区における被差別部落と非被差別部落の青年たちの会話に表れていた非対象性、あまりにも違う意識の構造、また、三重の前川の近隣で非被差別部落の女性たちが語る「被害」は作者である満若の偽らざるリベンジの声だろう。

6 何が埋め込まれているのか
 部落解放運動の不祥事があったのは事実だろう。だがそれがどうしたというのか。刑事犯は逮捕され、刑罰を受け監獄に収監されたものいる。法治国家としては当然で、それで事件も終わっている。もっとも、たとえばハンナン事件は、被差別部落出身者が業界と行政の汚泥をのまされた事件であった。マートンの業績を引くまでもなく、犯罪はホワイトカラーに圧倒的に多い。だが、ひとたび被差別部落民に関係して事件が起きると、その責任を全被差別部落民が永久に負わされる。満若は、バランスをとったつもりで黒川さんに世良田村事件を例にあげさせたが、現代社会のヘゲモニーは決してそれに多くの共感を与えようとはしない。広島で発生した前代未聞の買収金額による選挙違反事件は、すでに市民の記憶の彼方にある。だが被差別部落民の不祥事は、何十年の時間が経過しても常にその記憶が再生産される。部落差別はこのように構造化している。

 部落差別は人々の身体に埋め込まれている。だからこそ不意に差別発言や行為が発生する。被差別部落民も障害者差別、民族差別をする可能性はある。また、男性の被差別部落民は、女性の被差別部落民を蔑視するかも知れない。しかしそれは、自己と他者が入れ替わることを意味しているのではない。こうした問題は、被差別の立場に立つ議論ではインターセクショナリティの、また差別加害の問題からはポジショナリティの問題として議論するものである。インターセクショナリティの概念は、差異を必要とする社会構造を分析するうえで差異を語るその位置づけの問題である。例えばマイノリティである被差別部落民であり、女性であり、障害者であることで受ける加算的差別の分析方法の問題として提起されていると考える。

 熊本理抄は、上野千鶴子は部落解放運動内部の女性差別を論じるが、女性解放運動内部の部落差別は論じないと批判している。さらに熊本は、日本で流通する複合は、multiplediscrimination(複数の差別)の翻訳で、complexdiscriminationとは別の概念であると分析している。前者による理解は、一人の人間主体を複数に分けることになり、キンバリー・クレンショーによって導入されたブラック・フェミニズムのインターセクショナリティ=「交差性」概念を使い切ることができないとの主張であろう。重要なのは、「差別の複数性にあるのではなく、交差性に」あり、それは、「一人の人間に相互に絡みあって立ち現れる抑圧のアマルガム」の分析にあり、そこに解放を求める主体形成の可能性を見出す。筆者は、熊本の主張がきわめて鋭い知見に基づいていると考える。

 つまり、「被差別部落民であり、女性であり、障害者である」という状態はそれぞれが別のカテゴリーとして一人の人間に備わっていると認識するのではなく、「アマルガム」、すなわち合金のように融合した一つのカテゴリーと認識されるべきといえる。ポジショナリティの議論は逆に被差別部落民でありながら男性であるという抑圧的「アマルガム」としてどのように自己認識し告発にどのように応えるかという問題であろう。もちろんこの考え方にも疑問の余地はある。それは、マイノリティのカテゴリーが際限なく細分化され、結局、個人化または切片化する危険性である。しかし、筆者の議論からは、「アマルガム」概念は、インターセクショナリティの問題を過誤なく言い当てていると考えている。

 熊本は、被差別部落女性としてインターセクショナリティを問う立場から、「絶対的な被差別者がいるという考え方に私はくみしない」としたうえで、しかしその考え方を安易に述べることに欠落していることがあるという。それは、「抑圧がどうつくられてきて、権力をどうつくってきたのか」「権力構造が具体的にどのように作動するか」という問題だという。

 マイノリティとマジョリティの間は、非対称的な関係である。それは、暴力的で入れ替えが不可能な関係である。被差別部落女性は、アマルガムなカテゴリーに置かれている。それは、非被差別部落の男性はもとより女性からも差別を受け、被差別部落内では、被差別部落男性による暴力的な支配の対象である。被差別部落の女性の闘いは、女性解放運動からも存在を無視されることがあった。つまり、筆者は、複雑に融合する被害と共謀関係を「関係性」の議論では説明できないと考える。